近頃、土方の眉間の皺が一層増えた気がする。
それは、近藤を始め、屯所に居る隊士皆が感じていることであった。
「なぁ、トシ。俺にも言えないような悩み事かい?」
時折近藤ら幹部が問いかけたり、茶化したりするものの、
土方の方が二枚も三枚も上手で、軽くあしらわれてしまい、結局何が原因なのか分からずに居る。
平隊士は、いつも厳しい土方が一段と厳しく見える為、常に緊張を強いられて生活している。
一方の幹部は、兎角隊務に支障を来さなければいいのだが…と、様子を見守っている。
無論も例外ではない。
土方の事が心配ではあるが、立ち入った事情を聞ける立場ではないのは重々理解している。
自分が手落ちなく任務を遂行する事で、少しでも土方の力になれるのであれば、
と毎日健気に隊務に励んでいた。
そんなある初夏の昼下がり。
が庭先の掃除をしていると、屯所の門をそよ風の如く軽やかに入って来る男が居た。
「こんにちは。お届物です。」
その男は肩に背負った木箱から、よくぞその箱にこれだけの量が
入っていたものだと思う程の紙の束を取り出した。
「御苦労様です。」
は、手にしていた箒を壁に立て掛け、飛脚から大量の紙の束を受け取った。
そして、その宛先人の名前を見て驚いた。
どれもこれも、皆土方への手紙だった。
そして更にを凍りつかせたのは、土方に宛てた手紙の差出人が、
全て同じ人物だという事であった。
「これって女性の名前…よね?という事は恋文………なのかしら。」
以前、数多くの恋文が部屋で保管しきれず困っていた土方に助言した事があった。
だが、その時の恋文は数多の女性からの物で、土方がどれほど京で人気があるかを伺えたものだ。
したがって、今まで大量の恋文が届いていても、さして気にも留めていなかったのだが。
一人の女が想いを認めるには、いささか尋常ではない数である。
は、その想いの重さに、背筋が寒くなるのを感じた。
は、抱えきれない位の手紙を携え、足早に土方の部屋へと向かった。
部屋の中に居るであろう土方に声をかけるより先に、目の前の障子が開き、は驚きのあまり声を上げてしまった。
「あ、声を上げて失礼致しました。」
「いや、こちらこそ驚かせて済まない。性急な足音が聞こえたので、急用だと思ってな。
……で、それほど慌ててどうかしたのか?」
声色は柔らかだが、眉間に皺が寄ったままの怪訝そうな表情は相変らずであった。
は、躊躇いながら抱えていた手紙に視線を落とす。
「お届物です。」
そう言ってが差し出した山のような手紙を見るなり、土方の表情が変わった。
その一瞬の表情の変化にが気付いた時には、既に彼女は土方の部屋の中に引き込まれていた。
土方は辺りの様子を伺い、誰も居ないことを確認すると、部屋の障子を閉め、苦しげに息を吐き出した。
「あの、近頃土方さんがお悩みになっているのは、もしかしてこの手紙と関係があるのですか?」
の問いかけに、土方は厳しい視線だけをこちらに向けた。
「見たのか?」
「内容は存じ上げませんが、差出人は…。これって恋文…ですよね?」
「そうか、見ちまったのか。」
それまで厳しい表情だった土方は、観念した様子でふぅと溜息をつくと、
部屋の中央へと移動し、に座るよう促した。
「察しがいい奴だ。まぁ気付いたのがお前だったのは幸いだったかもしれん。」
これまでの働き振りと、前回の恋文の処遇を巡っての一件から、は真面目で口が固いことを
知った土方は、彼女なら今の己が置かれている状況を打開できるかもしれない、と思った。
の心を確かめる為に、土方は真っ直ぐに彼女を見据えた。
「お前が入隊したのは、剣で身を立てる為だったな。」
「はい、その通りです。」
「何があっても、その心は変わらないと誓えるか?」
「誓えます。」
迷う事無く答えるの目は、揺るぎ無い光を宿している。
「分かった…」
一言だけ、そう呟くと、土方は机に向かい、筆を執って何かを書き始めた。
「、お前を見込んで頼みたい任務がある。」
そう言うと、今書き終えたばかりの文を素早く畳み、桜庭に差し出した。
「任務はこの中に書いてある。この事は他言無用だ。引き受けてもらえるか?」
いつも任務を命令する際の土方とは思えない物言いだ。
よほど困窮しているのであろう。
は、その任務を二つ返事で承諾した。
部屋に戻ったは、任務を確認すべく、懐から先程土方から受け取った文を取り出した。
任務の遂行は明後日。
先に指定された店へ行き、着替えを済ませ土方の到着を待つ事。
そして合流した後は、そのまま土方の巡察に同行する旨記されていた。
恋文の内容がどのようなものなのかは分からない。
ただ、ここ数日の土方の様子と、巡察の同行を求めてきた様子から、
ただならぬ状況であるのは間違いないであろう。
執拗以上に求愛され、困っているだけなのか。
あるいは怨みを買って、命を狙われているのか。
自分が任務を引き受けることで、土方の気鬱が晴れるなら……
は、自分の剣を握り締め、改めて気を引き締めた。
土方からの任務遂行当日。
は、日が最も高くなる頃、指定された店に到着した。
そこは呉服屋で、土方とは顔馴染らしい。
店主は、土方から話は聞いているとを奥の部屋へと案内し、風呂敷に包まれた着物を手渡した。
着替えが終わったら、隣の部屋を尋ねる様言伝をし、店主はまた店へと戻っていってしまった。
は、手渡された風呂敷包みを開き、中から露になった着物を見て動揺した。
春を思わせるような淡い桜色の小紋。
左の見頃には桜の花が散りばめられている。
これは女物の
それの袖に腕を通すのに、暫し躊躇した。
任務である以上、女物の着物に腕を通すのに私情をどうこう問われる事はない。
だが、万が一土方が狙われているのだとすれば、襲撃された時にこの着物では動きの妨げになる。
念の為、短刀を偲ばせる事にし、着替えを始めた。
すっかり女性として可憐に着飾ったは、部屋の中の様子を伺いながら、ゆっくりと隣の襖を開けた。
そこには既に、土方が待っていた。
「ああ、よく似合ってるな。」
「………っ!?」
滅多に人を褒める事の無い土方が、自分を褒めている。
思いも寄らない状況に、はただ動揺するばかりで、土方と目を合わせられなくなってしまった。
「これくらいでうろたえてもらっちゃ困るな。本番はこれからだぜ。」
の様子が滑稽で顔を綻ばせた土方は、立ち上がると、の懐を指差しこう告げた。
「今日はそういう任務じゃねぇから、そいつは必要ないぜ。」
自分が本来の姿で着飾る事と、土方の恋文の気鬱を晴らす事と、どのような関係があるのか。
巡察といっても、土方も隊服を羽織って居る訳でもない。
こうして歩いていると、ともすれば逢瀬にも見えるかもしれない…
急に土方を男として意識してしまったは、気恥ずかしくなり、
途端に歩みもぎこちなくなってしまった。
「おい、大丈夫か?」
歩みが遅れた事を心配し、土方が覗き込む。
その視線は、まるで自分の一瞬の出来心を見透かしている様で……
その思いを立ちきるかのように、は頭を振った。
「申し訳ありません。任務に集中します。」
「いや、そこまで気負う必要はない。今はただ自然に振舞ってくれれば、それでいい。」
本当にどれだけ真面目な女子なのか。
だからこそ、彼女にならこの役を任せてみよう、と思ったのだが。
穏やかな笑みを浮かべる土方を見て、は嬉しく思った。
たとえ束の間であるとしても、土方の笑顔を見たのは実に久しぶりだ。
つられても、自ずと笑顔になる。
このまま暫し、この暖かな時間を共有できたら………
だが、次の瞬間、土方がいつもの張り詰めた表情に戻ったのを、は見逃さなかった。
「土方さん?」
「いよいよお出ましになった様だぜ。」
「…………え?」
その囁きに、は先日の恋文の事を思い出す。
お出ましになったとは、やはり恋文の相手なのか。
一体土方に何の用なのか。
「悪いな。これ以上は我慢できねぇ!」
突然土方は大声を上げると、の腕を引き、道脇の長屋に入り込んだ。
そこには、今は誰も住んでいない様だった。
急の出来事で訳のわからないは、土方に答えを求めようと顔色を伺おうとしたが、
それよりも先に土方に抱きすくめられ、身動きが取れなくなった。
「愛してるぜ…鈴。」
「土方さん!?」
驚くを物ともせず、彼女の細い顎に手をかけると、くいと持ち上げ、その瞳をじっと見つめる。
「つれないな。あれ程トシと呼べと言っているのに……」
「あのっ…」
質問も抵抗もする隙を与えず、土方はの首筋に顔を埋め、唇でそこをゆっくりと辿っていく。
は立っているのがやっとで、必死に土方の袖にしがみ付いていた。
急に態度や呼び名が豹変したのは何故なのか。
もしや、任務と称して、本来の目的は違うところにあったのでは…
だが、土方がそのような事をする男ではない、とは思っている。
しかし、先日土方の部屋で、剣で身を立てるという
己の気持ちを確かめられた事が、心の何処かに引っ掛かっている。
この任務の、そして土方の真意は、何処にあるのか…………
戸惑う視線が、首筋から顔を上げた土方のそれと重なった。
「俺が欲しいのは、鈴、お前だけだ。お前は…違うのか?」
そう問う声音は艶めいているが、表情はそれに反して強張っていた。
不思議に思ったが、次の瞬間捕らえたのは、土方の真後ろ、
先程この長屋に入ってきた勝手口の隙間から覗いている女の姿であった。
「……………!!」
その視線は、ずっとこちらを凝視している。
まるで桜庭を恨んでいるかのような、恐ろしい目だった。
まさかこの人……!
土方に視線を戻すと、まるでが問おうとしていた事が分っているかの如く、小さく頷いた。
「どうなんだ鈴、俺はお前の心が知りたい。」
僅かだが、土方の手が震えているのが伝わってきた。
その瞬間、はこの任務の意味を理解した。
そっと土方の体に腕を回し、抱きしめる。
「私も、貴方さえ居てくれれば他に何も要らない。トシさんが私を望んでくれるのなら。」
その瞬間、勝手口の向こうに居た女は、悔しそうに顔を歪ませると、走り去って行ってしまった。
「………行ったか?」
「はい……」
女が立ち去ったのを確認すると、土方の顔と腕の緊張が抜けた。
の体を離すと、くるりと背を向けその場に腰掛けた。
「詳しい事情も話さずに、済まなかったな。御蔭で助かった。」
「驚きました。もしかして私の志を試されてるのかとも思いましたし…。」
「……………とも?」
「その…土方さんは、そういう事をする方ではない……とは思ったんですが、
一瞬疑ってしまいました。ごめんなさい。」
「いや、疑われて当然だろう。」
土方は苦笑混じりに髪を掻き上げた。
「今回の件はお前にしか頼めなかった。屯所の野郎どもに知れれば、
後でどう冷やかされるか分らねぇし。遊女に頼めば貸しが出来るから、後々面倒だしな。」
土方に聞けば、恋文の相手はこの界隈に住む町人の娘で、一月程前、
不穏な輩に絡まれた所を助けたのが縁で知り合ったという。
その時に向こうが土方に好意を持った様子で、以来、連日山のような手紙が届いていたのだ。
その量と内容は日増しに度を超えていき、近頃では外出の際、後を付けまわされる様にもなっていた。
想いには答えられないと、何度となくやんわりと断ってみても、
「諦められない」の一点張りで、土方もどう扱っていいか分らず、うんざりしていたのだ。
「それであの演技だったんですね。」
「通じている女が居る事が分れば、諦めてくれると思ってな。」
立ち去った時の表情を見れば、ひとまずは成功したと言えよう。
「逆に、今度は私が恨みを買って狙われたりして…。」
と冗談混じりにが苦笑していると………
「その時は、俺が守ってやる。」
「………え?」
思い掛けない言葉に、は驚いた。
例え、この件に巻き込んでしまったという義務から生じた言葉であったとしても。
何処かで嬉しいと思う自分が居る事にも驚いた。
「それじゃあ戻るとするか。」
そう言って立ち上がった土方は、を振り返った。
「そうだ、その着物はお前にやる。」
「そんな!頂く訳にはいきません。」
「今日の任務の詫びと礼だと思ってくれればいい。」
一目見た瞬間、可愛い着物で気に入ったのは確かだ。
しかし隊に居る以上、これを着る事は色々な意味で憚られる。
「でも、頂いても着る機会が……」
折角の土方の好意を断るのは心苦しかった。
「だったら、また時折こうして俺と歩いてくれないか?」
「…………えぇっ!?」
「折角似合ってるのに、今日で見納めだなんて勿体ねぇからな。」
の心を何処まで見透かしているのか。
意味ありげな笑顔でそう告げると、再び背を向け歩き出した。
それを慌ててが追いかける。
胸の奥にある暖かな気持ちを抱きながら………。
あとがき
5月に入りふと思いついたネタです。
追悼の意も込めて、久しぶりに書きました。
モテモテな副長なら、異様なほどに執着する女性が居てもおかしくはないかも…と。
そこから生まれたのが、このストーカー撃退大作戦(違っ!)です。
何が一番最初に浮かんだかというと、長屋に引き込んでの
「ちょっと待って下さい土方さん!」なシーンのあれやこれです。
ただ、相手は鋼鉄の理性を持つ副長。
演技の為に、鈴花ちゃんにやり過ぎるのもどうかと思うので、
その辺の匙加減に苦心しました。